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超えた者にしか分からない都会と田舎の格差〜その②〜

お金/住まい, 育児/教育

前回の記事で書いた通り、都会と田舎の格差についての記事が話題を呼んでいます。

 

わたしも、関西の田舎から東京に出てきた身として都会と田舎には深い深い溝があると思っていました。

記事にある経済格差以上に教育や文化の格差だという指摘はその通りだと思います。

この話は、落合陽一さんの日本再興戦略に記載されている「経済の格差よりも文化の格差の方が影響が大きい」という話にも符合します。

たまたま都会に来たからわかったという実感

記事の筆者は、中学時代に一緒に悪さをやっていた(詳細は書けないとのことですが)仲間たちがおり、その中には自分よりも頭の良い連中もいた。

たまたま自分は警察の厄介にならずにすんで、その結果地域の中では上位の高校に進学することができて、高校3年になった時に都会の大学受験という選択肢があることを知ることができた。

それは偶然に過ぎない。自分は偶然生き残ったサバイバーズギルト(生存者が感じる罪の意識)を感じることがあるといいます。これもなんだかわかるんですよね。

ギルトというほど強く感じることはないですが、自分がたまたま幸運に恵まれて今の立場にいるということ、それは本当に偶然の産物に過ぎないということ。そういう実感がありありとわかります。

都会の人に見えないもの、田舎の人に見えないもの

記事に書かれている筆者の地元少年時代のエピソードは、都会で育った人たちは驚くような内容もあるかと思います。

例えば以下のような内容です。

私の周囲には平仮名を正確に書けない大人が複数存在した。彼らは1960年代のうまれである。日本には、そうした人がまだ歴然と暮らしている。その子供たちは私と世代が変わらない。

(中略)

私の通った中学は私が入学した頃からかなり治安が改善していたものの、それでも複数名は犯罪によって消息を絶ち、10人弱は高校を1年以内に退学になり、私は仲間と頻繁に他校との乱闘事件を起こしては交番で説教を受け、教師は毎日のように個室で生徒を殴りしばしば大怪我を負わせる、といった状況だった。

もちろんこういった例が半径5メートル(=家族とか親族)にいるのか、半径1キロ(近所とか地域)にいるのかの差はあれど、こういった話って地方の公立中学に通っていたらまあ想像できる範囲な気がするんですよね。

でも、都心で生活していると中々こういう世界があることを想像できない。

それは田舎の人が都会の大学や会社生活を想像できないことの裏返しだと思います。

マイルドヤンキーという存在を実感できるか

少し前に「マイルドヤンキー」という言葉がマーケティング界隈で話題になりました。

地元に根ざし、同年代の友人や家族との仲間意識を基盤とした生活をベースとする若者。博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダーでマーケティングアナリストの原田曜平が提唱している。現代の一般的な若者の志向とされる都市部集中、車離れ、晩婚化、少子化とは異なる経済活動や行動様式を持つと定義され、仲間と同乗して車を使い、地元企業に勤めて週末は幼なじみとショッピングモールに出かけるなど、行動エリアが半径5キロメートル以内で完結するという

出典元

この話は東京を中心としたビジネスマンに「へー、なるほど。そういう人たちがいるんだ!」と新鮮なものとして受け止められましたが、地方の人の反応は「何を今更言ってるの?」という反応だったと思います。

マイルドヤンキーの意味深いところは、もともと存在していたけれど特別定義されていなかった「ヤンキー」よりもマイルドだけど、「(東京の人が考える)普通の人」よりはヤンキー寄りな人たちというクラスタに対して、ふわっとしているけれどそれなりに納得感のある定義を与えたことだと思います。(EXILEが好きとか、ワンボックスカーに乗るとか、イオンに集まるとか。。。)

それにより初めて都会の人にもマイルドヤンキーは「認識できる」状態になったわけです。

ところが東京のビジネス街で働いているとマイルドヤンキー層に会うことがやはり少ない。

そういった人がいることは「認識できた」けれど、次の段階として実感することはやはりできないと思います。

そして結局は「聞いたことはあるけど自分とは遠い世界の話」として整理されていってしまう。

これも田舎にとっての都会の大学や会社にと同じではないでしょうか。

田舎にも優れた才能は存在する

都会vs田舎というと、どうしても都会の人間が優れているってことか!と過剰に反応する人が出てくると思うのですが、そういうわけではないのです。

また「幸せかどうか」も別問題です。

記事の筆者もそこは明確に別問題だと言っています。ただ、都会にいたら誰かに発掘され伸ばすことができたであろう優れた才能が、田舎にいると眠ったままになる可能性があること、自分自身の才能にすら気がつかない人たちが(比較的)田舎にはいるということが課題だと言っているのではないでしょうか。

そう!田舎にも「こんなところにこんな優れた才能がいたのか」という例はたくさんあります。

数年前にネット上で少し有名になっていたこちらのブログの著者の女性は自身の所属する世界を「低学歴の世界」と呼称しています。

彼女のいう「低学歴の世界」はインターネットのことを以下のように理解しているそうです。

ミクシィやフェイスブックは知ってても、インターネット、っていうのは知らない。

携帯やスマホでケータイ小説読んだり日記書いたり写真載せたり動画見たりコメント書いたりしてるけど、でも、インターネット、って知らない。

自分が使ってるのがインターネット、ってこと、知らない。

使ってるのは、携帯だし、スマホだし。

パソコン持ってない人多いし、インターネットはパソコンでやるものだと思ってる。

スマホだって、うちの職場のおばさんたちは、それがなにかちゃんと知ってない。

ガラケーって言葉も知らない。

パッカンのケータイ、って言う。

ケータイの前にピッチがあった、と思ってる。

それと、こんど機種変する時は、アイフォンとアンドロイドとスマホとアイパッド、の中から選ばなくちゃいけないと思ってる。

その4つは、「アイフォン=ソフトバンクの薄型ケータイ」「アンドロイド=ドコモの薄型ケータイ」「スマホ=auの薄型ケータイ」「アイパッド=アップルの大型アイポッド(音楽聞いたり動画みる専用機械)」って思ってる。

いくつか彼女の記事を見ればわかることですが、この方の文章力や観察力は非常に優れた才能だと感じます。それでも彼女は低学歴の世界から抜けられません。少なくとも彼女はそれを「低学歴の世界」と認識できるだけのリテラシーを持っているし、それを表現するだけの才覚も併せ持っているにもかかわらず、やはりその世界から抜けだせないのです。

(続く)